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2009.7.8 CIVIC Racers  其の2 続ける事の大切さ

物事には必ず始まりと終わりがあると言われる。始めるきっかけは何であれ、どんな事でも以外と簡単に始められてしまう。しかし、継続する事が実に難しいのである。
例えば、商売を始めたとする。始めた日から一国一城の主であり、その日から最高責任者となるわけだから利益が出ようと不利益で落ち込んでも最終的に続けるのか、辞めるのかは経営者がニ捨選択し進んで行く他ないのであろうか?
経営学的な始まりとなってしまったが、実はこれ、レーシングドライバーとしての最低限のルール?(心得)  どうして! ワット!

まあ、今回はその辺りのお話をして参りましょう。
聞こえがよくモータースポーツと言いますが、言いかえれば(お金が回らなければできないスポーツとも言います。)いきなりノックアウト的な説明であるが、(物事は判り易いのが一番である)と言う、僕の父の教えでこのような説明となっている訳だが?

ちょうど45年以上前であろうか?もちろん僕は生まれていませんが、1963年にホンダS500が発表されたと同時に、ホンダはF1グランプリへの挑戦を発表し同年、5月に鈴鹿サーキットで日本初の本格的な自動車レースがJAFの主導のもと開催された。
その後、本田宗一郎さんの先見の明に感服する多くの若者が鈴鹿サーキットへ通い、故浮谷東次郎氏、生沢徹氏、鮒子田寛氏、横山靖史氏と名ドライバーが誕生し、車輌製作では(無限)本田博俊氏、(童夢)林みのる氏、その後コジマF1や、トミーカイラで車輌作りに励む、若き日の解良喜久雄氏など自動車作りに真摯な若者を生みマイナーではあったが、F1を頂点としたモータースポーツの活動が形成されたと解良喜久雄氏から先日話を聞いたばかりであった。
解良喜久雄氏とはINGINGに在籍されていた時に大変お世話になった方で、その後も個人的に技術アドバイスをして頂いたりと非常にありがたいお方でお付き合いしていただいている。
そして高度経済成長のもと、国内自動車メーカーは、効率的な人・モノの移動手段としての自動車を大量に生産し世に普及、また商品PRの場としてレースを活用し、各サーキットで自動車レースを開催し今日のモータースポーツが始まったとされている。
以前、僕のコラムに述べた事があると思うが、レースには大変な苦労が生じる。
僕がレースデビューした1990年代はバブル絶頂期、とにかくレース参戦予算は天文学的な予算で18歳の小僧にはどう逆立ちしても捻出不可能な予算であったし、稼いでも浪費する方が多いレース参戦は自滅的行為に等しかった。
しかし、そんな事で諦める訳には行かない。
その頃1987年から始まったF1中継でモータースポーツがマイナーからメジャーへと移りゆく社会風潮にあり、これはもしかしてチャンスでは無いかと!

漠然と自分の中でイメージした結論が、そうだレースしたければホンダに入ったらできると自分勝手に思い込み、数社内定していた会社をすべてキャンセル、即座に近所のホンダ直資店にお願いに行った。
別に誰の紹介が有る訳ではなく当時のプリモの看板がある販売店に行き、求人募集してませんか?こんな感じでアタックしたが予想通り全て空振り。
諦めかけ心が折れそうになっていた時に、洗車要員が必要だから来ないか?と当時の店長から連絡があり、電話を切ったあと直行した。
晴れて洗車要員となった。そんなある日天使が現れた、(君、だれ・・・  洗車要員です。・・・やるきある?・・・お願いします。)と言ったら、すぐに採用してくれるのかと期待して聞いていると、採用試験をするから受けるか?と言われるので、はいと答えたがどんな試験か全くわからない?
今の状況ではチャンスにかけるだけ! 入社試験は僕1人 学科試験は一般教養60点以上だから、それ以上取るように (はーい)と明るい声で返事をするも、とった点数48点。
試験は面接もあった。毎日来ているのに面接?おかしいな・・・ と思っていたらこんな事を聞かれた。
なぜ、ホンダに志望されましたか?・・・   CIVICレースをしたいので志望しましたと素直にうち明けた。(どうせ学科48点だったのでダメだろう)と諦めていたら30秒ぐらい回答がない?
藤田君おめでとう!!!  と握手を求められた? この会社どんな会社・・・ 
ホンダが欲しい人材は君のような予測不可能な個性ある若者だとか言われ即日メカニックとして本採用となった。その後、初めて与えられた仕事がアクティー郵便車のエンジン交換であった事は今でも鮮明に記憶している。
おまけにCIVICレースは販売店がスポンサードして走らせる計画だと言う。
これが本格的な4輪レースへのスタートとなる訳だが、当時の社長は大のモータースポーツ好きで後々聞くと「第1回日本グランプリ」にホンダレーシングのメカニックとして参戦していたと聞いたからこれまたビックリだった。
そして、デビューが決まるとレーシングカーも自ら製作するようになり、僕の人間形成における重要な役割がモーターレーシングとなった。
昼間は全開でディーラーメカ、仕事が終わり夜7:00からはなんちゃってレーシングメカ風をきどり朝まで作業、こんな生活が長く続いたが楽しさに酔いしれていた。

しかし、こういうやり方が創世期の思い出話しではなく、T−WORLDになってからも、やり口としては基本的に変わるところはない。
知恵を出し形にして完成品に仕上げる。自分の技術が向上していく事は楽しいよね。
失敗しても、何を言われても絶対に腐らない精神修行。レースできれば・・・
だから絶対やめないし諦めない。
最近の人は自分の手を汚してやることが随分少なくなったね?
そうレースも同じ、ワンメイク化が盛んになりすべて人と同じ、コンディションは同じであるべきと考えるが、考え方まで同じである必要が全くないと思う。結果、ワンメイクレースにしたって膨大な参戦費用がかさみ台数も低減、やがて日の当たらないイベントになるという単純な図式となっていく。
そう、いつの時代も人がいてモノがあってお金がついてくる。(これは4000年前から変わっていない定説だ)今は金、金、モノとなりつつあり、マンパワーはあまり評価対象とはなりにくい世の中になっている。人が時代を作り、文化を継承して行くことの大事さを真剣に考えるべきであろうと最近強く思い始めていたところに、今回、テツ清水選手からレースの相談を持ちかけられ参戦する運びとなった。
参戦する目的としてはいくつかあるが、まず楽しいレースをしたい一心である。とは言っても厳しさの中での楽しさなのだ!
レースに出場する為に何が必要で、どんな組みたてをするか?限られた時間と予算で・・・これを考えるのがまず楽しい?苦痛になる事もしばしばであるが?
大義としては、テツ清水選手の40周年記念レースにオファーを頂いた事であろう。
今回使用する車輌は、20年以上前にテツ清水選手がCIVICレースで2度目のチャンピオンを取ったときに乗っていた同型の車輌、僕自身もこのEFのレーシングカーで初参戦した。
想い出の車輌を使い参戦する事で、当時から支えてくれていた仲間達が次々と連絡をくれ手伝ってもらう事になり計画が進行中である。
時代が変われど多くの人に助けられ、活動できる事はすばらしい限りであるが、この感謝の気持ちを常に持ち続けて進んで行けなければならない。
アマであれプロであれ応援してくれる人達がいて始めて本当の目的に近づける。
20年近くやっているが、最近つくづく感じる事がある。それは、やっている目的をはっきりさせる事。
ドライブテクニックなのか車輌作りなのか、また商品PRなのかは様々であるがこの部分がグレーだと決して長く活動ができないということがわかってきた。国際格式であれ、ローカルシリーズであれ、レース界そのものが現在もマイナーな世界で発展できないのは型にはまり過ぎたビジネススタイルから脱却できないからであろう。
本当の意味での自動車レースの役割が無に等しく価値の無いものに変化して行くのは寂しい事だが時間の問題のような気がする。いかに継続して行くか?非常に複合的要素が多い課題であるが答えは簡単である。今回は様々な目的達成のため知恵を形にしたいと考えている。

20年以上前の車輌をレーシングカーに改造 こちらは後日説明するとしよう。

次回へつづく By藤田ピョン

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